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橋本努 講義「経済思想史」北海道大学経済学部 no.4.

毎回講義の最後に提出を求めているB6レポートの紹介です。

 

 

金井ゼミ 3年 082096 山口しおり

  

   マルクスのゴータ綱領批判を読み、私の中に少し引っかかっていた問題について再び考えることになった。マルクスは共産主義社会の権利というものを「実質的な平等とは権利における不平等である」としている。地球上の60億人以上の人々は皆、一人一人が異なる個性行動様式、思想等を有しており、自分と同じ個人は存在し得ない。それゆえ、一人一人のあらゆる面を捉えることが個人の尊重である平等には必要なのだろう。人間は労働者のみの存在ではないのだから。ところで私が何を考えたかというと、それは私の知り合いのいった一言に関係がある。その人は公正という言葉を嫌うといった。人は皆違う存在で全員を同様に、公正に扱うというのは表面場なものに終わりやすいので良くない。真の公正を目指したいというのだ。真の公正というものについて考察をめぐらせてみたが、それはこの平等=不平等のことだろう。しかしこれは難しい。形式的に人が人を平等に、公正に扱うのは楽である。あるルールを制定し、全員が従ったり、権利を諸個人が例外なしに享受、行使できれば平等・公正が保たれる。これは最も手っ取り早い方法だろう。だがそのような画一的なもの見方は実は何も本質を捉えていない。一方的な平等の押し付けともいえる。

   しかし一人一人の個性、能力を認めた上ですべての人を本質的に平等に扱うというのは簡単なようで、あまりにも難しく、そして覚悟のいることのように私には思われるのだ。先の知り合いの言葉は単なる人間関係のレベルであるが、博愛主義的な公正は捨て、一人一人の長所も短所も認めた上ですべての人に分け隔てなく接し、理解するというのが表面的な公正を嫌う人々の理想だろう。だが、実行する上では相手のすべてを完全に受け入れる寛容さ、恣意の排除、客観的判断力が必要となってくるのではなかろうか。「共産主義社会の本質的な権利の平等」がマルクスの理想だろう。個人を単なる労働者という面から捕らえずに、他の才能や欠陥した点等を認めて、その上で個人に応じた権利を付与する社会、すばらしい社会であると思う反面、社会全体に相当の覚悟を必要とするのではないかと考えてしまう。中国は文化大革命天安門事件等で人々を追いつめており本当に平等な社会とは思えない。

   中国は共産主義国家だが(資本主義社会から生まれたわけではないので不適切かもしれないが)形式的平等の社会だろう。私が本質的平等が難しすぎるのでは、と懐疑的になるのは、そのような権利の実現された共産主義、もしくはそれ以外の社会がない点もあるのだろう。

 

   金井ゼミ 3年 082039 山口しおり

  

   今回の講義は経済学というよりは哲学というか宗教学のような感じがした。マルクスの思想は共産主義や資本主義等のシステムを明らかにしているが、一方では、労働者の解放や疎外への批判を訴えているようでもある。私が勝手にそう考えているだけかもしれないが、彼の考え方からは私は宗教的なものを感じてしまう。宗教は宗教でも人が一生現在を背負いつづけなければならないキリスト教的な考え方ではなく、人間が本当に解放される、どちらかというと魂の救済を説く宗教である。(私はクリスチャンなのでよくわからないが)先生はマルクスの考え方は学問的には問題ないが思想として捉えるととても魅力的だとおっしゃっていたが、本当にそのとおりで(2年のころからマルクス経済学を学んできたが)どうも経済学としてはピンとこないものがあった。資本の原始的蓄積から共産主義への流れは身近に感じられる議論ではなかったが、しかし労働者の人間性や疎外感を説く趣旨のものはなかなか興味がわいた。いま、資本主義にどっぷりつかった日本で生きているせいかもしれないが、近代経済学の限界効用や一般均衡理論等のほうが私たちの生活の中での経済に近い存在のように思われる。だが、経済という面を離れて「労働ばかりでもう疲れた」と弱音を吐きたくなるような、過労死、仕事人間のまだまだ横行する日本の労働者としての一人間という面で見ると、マルクスの思想は宗教的な面が自らを救ってくれるような魅力あるものに感じられるのかもしれない。いくら学生でも生活苦の場合、毎日毎日学校がえりにアルバイトに明け暮れてなければならない。これは食べるためにのみ働いているようなもので、それこそ動物的に生きているようなものである。今の日本の社会で生きている人は多かれ少なかれこの動物性に支配されており、また本人もそれをなんとなく実感しているのだろう。「働いてばかりだが、いったい自分は何のために働いているのだろうか」というように。

   昔はマル経の方が盛んだったどうだが、急激な資本主義化に人々の心がついて行けずにマルクスの考え方にすがろうとしていたのかもしれない。今から20年くらい前の学生はみんなマルクスを読んでいた。とある本に出ていた。それも高度成長期のある種のひずみだったのだろうか。今や社会が資本主義に慣れきってしまったのでマルクス経済学が廃れてしまったのだろうと、あれこれ考えてしまった。それにしても嫌でもみんな働かざるを得ない。そしてみんなが我慢している社会って何なのかは本当になぞである。いきる上で耐えざるを得ない不条理なのだろうか。

 

   古澄ゼミ 3年 17960081 末森剛

  

   今日の授業で気に入った点、学問は義務的にやるのではなく、自分から学んで行くものなのだから、立場の違う人から学問をしなくてはいけないのではないか、といわれるのは矛盾していると感じた。

   自分は大学生活において学問は必要ないと思う。その人が学問をしたいと思えばすれば良いし、部活にはげみたいと思えばそうすればいい。他人の批判を受ける問題ではないと思う。大学生の知的水準が下がっていると騒がれて久しいが、市場の原理ではないがそうなるべくしてそうなったのではないか。自分のイメージでは大学の上に学問があるのであって、学問の上に大学があるのではないと感じる。

   アルバイトがどうこうといっていたが、アルバイトが社会経験になると発言する人というのは、学問をしたいのだが、途中で挫折した人やずるずると目的もなく大学生活を送ってきた人が順調に学問を達成してきた人たちに対してのねたみ、羨みを感じていると思える。概して学問を追求してきた人は、アルバイトやスポーツ、恋愛に力を入れていない。そういった面で、優越感をもつことで自分の存在意義を確認しているように思える。

 

   古澄ゼミ 3年 17960081 末森剛

  

   自分は大学に学問をしてきて入ったわけではない。地元は埼玉であり、それなりの進学校に通っていた。その自分から、スノーボードにはまっており、マイナースポーツ、特に山や海で行なわれるそれにはまるものというのは概してその聖地に行きたがるものだが、そこで自分は北海道に行きたくて親も北大なら、ということでここにきた。学部も就職に強くて暇な経済学部を自然と選んでいた。そんなことだから、大学に入ってもはなから勉強する気もなく、単位さえ取れればよいという考えを貫いてきた。これまでの大学生活は端的に言えば、アルバイトとスポーツの連続。そして打ち込むことがあるというのは幸せなことで、就職活動を意識するようになるまでは大学生活を思いっきり楽しんでおり、何の不満もなかった。しかしふとこれからについて考えたときに、就職活動を含めてだが、不安になることはある。スポーツで飯をくって行けるほどではないし、かといって勉強は全くといっていいほどしてこなかった。自分のうりは何だろうか。多くの一般的な大学生よりはいろいろな経験をしてきたという自負はある。ただそれは文化的なものではなく、活動的なものだ。自分は文化的な営みができなくて、そういった人たちに対してコンプレックスを抱いているがゆえに、アルバイトやスポーツの経験が多いことをただ「社会経験が豊か、社交的、健康的」と思いこんでいるだけなのではないか。そう自問することがある。先生のマニュアルを読んで良いところをついているなあと感じた。学問に対して自信を失い、知的であることの一説は、バックグラウンドが少々違うものの、自分の感じていることとかぶる部分はあった。ひとつ聞きたいのだけど学問ではない別のことに大学時代に没頭するのはどう思いますか。それが結果が出ないとしても。ただこの本の前提の「学問時代に学問を真剣にすべき」からははずれますが。

 

   金井ゼミ 3年 17960156 宮下愛

  

   「学問のし方」についての講義も3回目が終了し私も始めのころよりは学問についての考え方が代わってきたように思う。学生も皆それぞれに自分の意見・感想を発言し、実に活発な授業であると思う。普段話したことのない人や興味をもっているが話すきっかけをつかめない人などの意見を聞くことができ、また、そのたびに人間というのは実に様々なものの考え方をするのだなあ、と感じた。プリントにもあるように、これを読んだほとんどの学生がそう感じていると思う。私自身も大学入学当時はやる気と希望に満ち、いわゆる「四月病」であったがそのあとすぐに「五月病」にかかったような状態になり、まいにちただボーと暮らしていた。しばらくするともはや「あきらめ」の感情からか開き直って「とにかく大学を卒業しなくては」とおもうようになり、授業にも「卒業のために」参加していた。入学前の、大学に対する期待が裏切られたために、そうなってしまったのだと思う。そうやって今の3年まで来て、急にむなしさを感じるのである。大学生活が残り少なくなってきて、ようやく今までの2年半がどれだけもったいない時間であったかを考えるようになった。知的能力は受験時をピークに後退してきているし、前には解けたはずの問題がすっかりわからなくなったりしているのを感じるたびむなしさを感じる。ゼミに所属していても自分で学習する意欲があまりなかった私はあまり質問することもなく、ただ座っているだけの「お客さん状態」になっていたと思う。本当にこのまま卒業しては悔いが残ることはめに見えている。同時にこんなに適当に暮らしていても単位が取得できて卒業して行けるシステムになっている日本の大学の在り方にも疑問を感じる。「いかに遊んでいるか」「いかにバイトに多くの時間を費やしているか」などということを自慢している学生を見ると「いったい大学生とは何なのか」ということを考えてしまう。日本の大学は入学してしまえば後は普通に過ごしていると卒業できてしまうというシステムのために、こうした学生らしからぬ学生が多いのだと思う。だから、成績に応じて授業料が免除になったりするシステムを導入すれば日本の大学もがらりと変わるのだろうと思う。よく考えればこれほど時間の余裕があって知的に学問することのできるのは、この大学生活しかないのではないか。ならば親に多少負担をかけてでも金を投資してもらうのもわかるが、学問以外のことにお金をつぎ込んでさらに仕送りが足りないといっている罰当たりな学生が多い。せっかく取っている新聞もポストからそのまま部屋の隅に積み上げられ、ただの邪魔なごみと貸しているのを見たことがあるが、非常にもったいないことをしているなあと思った。親のすねは学問する人のみがかじる権利があるのであって、遊ぶ金を知らずに仕送りしている親はかわいそうである。

 

   橋本ゼミ 3年 17960055 吉田昌幸

  

   大学における授業について。様々な専門分野の中でも特に基礎訓練の必要なもの(外国語、会計学、経済理論)は各学部で基礎カリキュラムとして準備しておく。学生は自分の望む分野で必要な能力を育成するために、それぞれの基礎カリキュラムで徹底して基礎を学ぶ。その際に各専門学校を利用する。基礎カリキュラムで単位取得したあと、総合的またはさらに専門的なことをするために、小規模の講義、ないしゼミを行なう。もちろん現状においてもこれらのことは実現されているかもしれない。しかしながら、それらは左図で言うとaの方であり自然と学生に対してはじめからある分野への選択が強いられることになるか、@の段階で中途半端な状態になってしまう。そこで私が考えるのはbの方で、それは基本的にはより自分の意思で専門分野をある程度の情報を得た上で決めることができる。「学問の技法」的なカリキュラムを入れるとしたらbでの3の位置になるのではないか。

   以上のようなことをすることにより、科目名の形骸化も防ぐことができるのではないかと思います。

 

   経済3年 横山 恵子

  

  M、ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

  近代資本主義の担い手となる近代的経済人は、歴史的に見てどのように生まれてきたのか。その起源について、ウェーバーは、プロテスタント倫理が根付いた中産階級人の禁欲精神を取り上げる。重商主義時代に芽生えた貨幣欲や冒険商人の流れでは見ていないのである。

  プロテスタントの禁欲精神は、人間の精神における倫理的な内面規範力と、その実践に際しては、合理的組織化された行動様式という特色を生み出す。前者は、生きる意味を包含した心理的起動力となる天職概念を形成する。その内容は、自己確信と絶え間ない労働である。後者は、前者の天職概念から生起したものであり、行為主義として世俗的生活態度の合理化を加速させていく。

  何かの本で読んだ記憶があるのだが、コーヒーの文化も、プロテスタントの禁欲的労働文化と共に発展したと聞く。つまり、常に効率的労働を行うために覚醒状態であることが重要視されてきたのである。

  このような人的基盤の上に、経済的進歩が促され、資本主義が発達していく。そして、資本主義形態が確立した時には、目に見えない教育でしか伝授できない人間の精神的内面である天職意識は消失し、合理性を追求する形態のみ残っていく。

  しかし、内面性や数量化できない「質」をないがしろにした資本主義形態の頂点であるバブルがはじけた今、従前の資本主義形態を超越する新たな動きがあちこちで見える。企業経営においても、ビジョンや使命といった内面性がクローズ・アップされてきている。

  人間の根本的な精神性に関しての一元的規範力(宗教に代表される)は、確かに現在の日本においては見られないけれども、多元的な価値観を尊重する動きが出て、過去の膨大な経験の蓄積を踏まえてより良いシステムを構築しようという動きもあるのではないだろうか。

 

   経済学部3年 工藤 健

  

  * 異なる社会主義の可能性

  1980年代以降の、東欧をはじめとする社会主義体制の崩壊について、様々な要因が挙げられているが、その中の一つとして、平等化政策による労働に対するインセンティブの喪失と、膨大な社会保障費の支出が挙げられる。つまり、その社会を支える誘因が失われる一方で、社会の支えられる部分が拡大していったことにより、収支のインバランスが起こったことが、体制崩壊の一因だったと言える。

  社会主義体制のように、自分の労働の果実が他人に配分されてしまう社会においても、天職思想を中心とするカルヴァン主義が、人々の精神において徹底的に根付いていれば、人々の勤労意欲が著しくそがれてしまうような状態を避けることが出来るのではないか。後で述べるように、その他の問題はあるにせよ、その社会は、経済的なパイを縮小することなく経済的平等を達成しうるのだろうか。

  実際に社会主義を採用した国々は、マルクスの言うような資本主義の最も発達した国ではなく、農奴性をはじめとする旧体制が残る、資本主義が十分に根付いていないロシアなどの国々であった。それに加えて、社会主義体制下にある国々では、社会主義の科学性に固執するあまり、宗教を迫害してしまった。

  ここで、プロテスタンティズムの倫理が人々の間に広まっていって、資本主義の精神として根付いている、資本主義の発達した国において、プロテスタンティズムによる人々の精神の支配を一部認めながら運営される社会主義国の存在を考えてみよう。これは、社会主義の宗教に対する一種の妥協であるが、一部の資本主義国が今世紀半ば以来、社会民主主義と妥協して福祉国家を作り上げたことと対比すれば、許される範囲の妥協であろう。

  このような体制下で、人々は自らの職業を天職であるとして、自己実現された労働を、その見返りを多く求めることなく行うであろう。そこでは、現実の社会主義国で見られたような怠業や形骸化されたノルマ達成のみを追求する態度は、伝統主義から出てくるものであるから、プロテスタンティズムの倫理により排除されるであろう。その結果、経済成長と平等化は矛盾なく達成可能になるのである。

  以上の議論では、プロテスタンティズムを導入することにより、社会主義は成長と分配の平等を同時に達成可能であることを述べたが、その議論に対してはいくつかの課題が残る。

  重要なのが、社会主義の思想とプロテスタンティズムの倫理との親和性の問題である。両者には、合理性の要求や、浪費に対する嫌悪の情、贅沢の圧殺などの共通点もあるが、プロテスタンティズムの反権威的性格は中央集権的な指令体制と相容れない可能性が高い。加えて、社会主義の崩壊の有力な原因として考えられる、政府の情報収集。処理能力の問題は解決されていない。

  また、宗教的精神が経済的活動から向け落ちてしまった後は、市場経済においては、社会における競争圧力など、経済活動そのものを推進する力が働き、ある程度、社会を維持していくだろうが、社会主義において、その後の経済活動を維持していくシステムの枠が形成されるかどうか、保障されないという問題が残ってしまう。

 

   木村多絵 11/29

  

  無意味化について

  「文化」というものがすべて自然的生活の有機体的循環から人間が抜け出ていくことであることが、なぜ破滅的な「意味喪失」につながってしまうのだろうか。それは、文化を創造し、獲得することで、自己を完成させようとするからである。これを追求していく過程において、本当にこれ以上のものは生まれないと思えるもの、つまり自己完成の姿をなしているものに出会うことはない。当然もっと上を目指し、自己の完全なる追求は終わらずしてその一生を終えることになる。その時、自分が死ぬ直前のものが自己の完全体であるはずがなければ、また、一生をかけた中で一番優れたものを自己の完成と見てしまうのは、単に「妥協」でしかないのである。そこに、ある種の空しさが生じてしまう。そして「なぜ自分はこんなことをやっているのか」という疑問が生じる。この考えにいたってしまう時、その教養人の人生は「無意味」なものと言えるのかもしれない。自己完成の目標が大きくなるほど、現世における状態がますます惨めなもの、劣っているものに見えてくるからである。ここに現世の価値喪失が存在し、生きていることまで無意味に思えてくる。しかし、すべての人間がこのような考え方をしたらどうなるだろうか。文化というものは、決してこの世界に存在しなくなってしまうのではないだろうか。自己を完成させる目標を持つ人がいなくなれば、その時代の文化は形成されないのである。それぞれの時代において、自己の完全体を追い求めている人がいるからこそ、その時代独特の文化が形成されるのであって、それは少なくとも世界にとっては意味のないことではないように思われ、彼らの存在は現世において意味のあるものであったと言えるのではないだろうか。ただ、それが生きている時点では認められないから意味がないように思えてくるのではないだろうか。このことから、わたしはウェーバーの言っている、「世界の意味の直接的な把握によって得られるような究極的な立脚点」というものは必要だと思うのである。

 

   木村多絵 12/10

  

  「近代主体」の理想に関して、私は現代でこのような理想を掲げている人は日本にいるのだろうかと感じてしまった。自律した個人というものについて、自律するためには「真理」によって自己を陶治し、強い「責任」を担う人間となり、「原点」によって自己の実践を支えなければならないとあるが、私はすぐに政治家のことを考えた。彼らの中で近代主体となるべき人材はいるだろうか。いつも気になるのは、協議などをする場で、「党の意見をまとめて」とある。どうして、全国から一人一人代表として出ているのに、個人での意見を述べられないのか。党の中で、自分の意見を主張して、もしそれがある問題に関しては党とは違う考えだという人がいてもいいはずである。私達は、仲良しグループを作らせる為に選んでいるわけではなく、自分達の思いを国の政治に反映させて欲しいと思って選んでいるのである。その点で私は比例代表には反対である。何か事件を起こしては責任を取ると言って辞職しているのでは、「原点」によって自己の実践を支えられる能力はないと思われる。「原点」の説明としての集団性同調性を排除するということが実現されていないのである。真理論の批判でもあるように、誰もが同じ見方をしなくても、別の観点から物事を見ようとするものを排除してはいけないと思うのである。また、主体性を身につけた者が、社会変革の氏名を負わなくてはならないという考え方も正しいと思う。今の日本では、一人一人では何もできないような政治家が自分達に都合の良いように社会変革をしていこうとしているだけのように思えてならない。自律した個人が「原点」によって自分の意見を持って話し合いをした場合に、同じ考え方の者がいることが理想なのであって、同じ仲間を集めよう、獲得しようとしている政治家達を情けなく思う。どの議題においても皆が同じ意見になるはずがない。しかし、それを貫くことができないで、個人の自律性を失っている議員は、たくさんいるはずである。これで、社会変革を行おうとすることは間違っていると思う。

  このように私は近代主体の考え方に賛成である。よって、この理想を乗り越えていくような政治家があらわれたならば、本当に国民にとっての社会変革が行われることになるのではないだろうか。

 

 

   小原まゆみ 10/8

  

  ・ 教授と生徒はどうあるべきか

  この2者の関係は教える立場と教えられる立場にある。であるから、われわれは「知」の前に謙虚でなければならない。しかし、それは「知」を与える者と与えられる者という関係には必ずしもならない。私には、「知」を与える者と奪う者という関係が理想的であると思う。教える者が懸命に知を広めようとするだけでなく、教えられる立場にある者が、我先にと奪うものでもなくてはならない。

  ・ 学問による「主知主義的合理化」は何を意味するのか

  学問とは、専門化してしまうことが多い。それは、自己に内在する意識がそうさせるものであり、すべての学問において超越している人は、いないと思う。しかし、専門化してでさえ、他の学問が必要になってくる時つまり、物理と数学、経済と数学のような時、学問は学問のためにあると言える。しかし、われわれがすべての学問に通じていない以上、どうすればいいのか。しかし、この社会には、それぞれの学問に専門化した人達がいる。合理的な社会とは、そうした誰かが知っていると信頼できる社会であり、「主知主義的合理化」とは、この世界に生きる、学問の存在価値であると思う。

 

   大渕未央 11/25

  

  まず、Q1で「商品」が富でないのはなぜか、という質問でしたが、これは最初に考えたのは、「富」は「蓄積されるもの」である、という点です。富は蓄積されてこそ、富の富たる性質を有するわけですから、それが「商品」のもつ性質にそぐわなければ商品は富とはなり得ないと思いました。そこで商品の正確に戻るのですが、商品とはそもそも使用価値と並んで、交換価値を有します。1つの商品をやたらにもっていても仕方なく、それが交換できるというところに、商品の価値があり、そうした商品の流通性を考えると、それは蓄積されるものではないように思います。よって、商品は富ではないのではないでしょうか。

  次にQ2で、捨象でなぜ「効用」は残らないのか、という質問は、先生がおっしゃった「効用は主観的な者で測定不可能である」という言葉から考えたのですが、諸個人によって、また時代の変化によって、効用はその時々で変化するものであることから、効用の残っている大きさを正確に定義することは不可能である、という考えに基づいて「効用」は残らない。残るのは、その商品いどれだけの労働を費やしたか、ということだけになるのではないか、と思いました。

  Q4で、社会主義では「価値」がなくなるのはなぜか、という質問でしたが、単純に考えれば、社会主義経済では中央計画当局が、商品の価格調整を行うからなのではないか、と思います。資本主義社会のような市場システムでは、交換(流通)によって、価値が決定し、価格が定まりますが、そのような市場システムがない社会主義では、価値を定義するような必要性はなくなるために、「価値」そのものがなくなるのではないでしょうか。

  Q5、商品所有者の「欲望」を想定しなくて済むのはなぜか、という質問についても、あまりよくわからなかったのですが、商品の「価値」と「欲望」とは、根本的に違うものなのではないか、と思いました。「欲望」は商品の交換価値の決定に対して働きかけられるものであって、「価値」そのものには何らの影響も与えなくその定義がなされる際に、相対的価値や等価価値に「欲望」の認識は必要ないのではないでしょうか。

 

   大渕未央 12/10

  

  「先生の論文を読ませてほしい」と書いた次の講義でコピーをいただき、どうもありがとうございました。一週間かかってやっと読み終えることができたので、今日はそのことについて書こうと思います。

  まず一番はじめに感じたのは、その論理性の斬新さです。私が、あまり最近の本を読まないから、ということが大きいのでしょうが、貨幣に対する定義を唐渡先生がおっしゃっていたもののようにだけ把握していた私にとって、その自己準拠性や、遂行的秩序は非常に真新しいものであり、なるほどと感心するばかりでした。(とは言うものの、私に先生がこの文章で意図されたことの半分も理解しているとは思いませんが…)自己準拠のところで、貨幣の性格をP=f(p)という論理形式で、表わされているあたりは、本当に今までの考え方をまったく変えられたような気がしました。要素Pが、Pを関数fで変換させたもの、という存立条件は、非常に素晴らしい条件である、と思い、これまでの私の考えや、このレポートに書いてきたことは、非常に幼稚であり、恥ずかしくなります。さらに発展して、選択が特定のものを選択するというだけでなく、選択されなかったものを背景化するということを同時に行っているというのは、驚きました。選択は私にとって、「特定のものを集団の中から選びとる」ことであり、後者のことは一度も考えたことはなかったのです。でも、この論文で、そういう定義を知り、そう言われてみると、まさにそのとおりである、という気がしました。今まで、自分の中になんとなく認識はしていたものの、それをはっきり言葉に表わして表に出すことはできなかったのに、ここではっきりと文字になって居るのを見て、殻を打ち破れたような気がしました。P=f(g(x))とは違う、ということは認識していませんでしたが…。

 

   大渕未央 1/7

  

  そもそも人間とはどのような存在であるのか。そして社会とはどのような存在でありうるのか、ということを考えてみました。

  方法論的個人主義においては、人間はそこにいる、ということで、すでに何らかの思想を帯びるという思想負荷性をもっているということでしたが、よく中国の思想で無我の境地に達する、という話があります。わたしはあまりくわしいことは知りませんが、冥想などを行い自己の内面を自分なりに深く見つめることで人間の存在の意義などについて悟りをひらく、というようなことだったと思いました。そういった世界においては、思想といったものは存在していないのではないだろうかと思います。「思想」が、個人の目的・欲求・意志といったものを意味するのであれば、無我状態においてはそれらはまったく違う次元の話であるのだから、意味のないものとなるでしょう。ただ、ここでは方法論を考えるのであるから、この場合の個人主義では、そういった思想は無視することにします。その5つのレベルで、個人についての分析を行っていますが、個人は考え、行為をする損zないというのが私の認識です。ミーゼスは目的・欲求・意志は個人のものだけであり、集産主義のように階級単位で分析をすることはできないと言っていますが、そこで出てくるのが、資本は〜を欲する、という考え方です。この間が得方は話つぃにはどうも納得がいきませんでした。個人の行為の結果として、主体を資本に置き換えてそういう言い方をしているのでしょうが、これはおかしいと思います。「資本は〜を欲する」という言い方では、まるで、資本自体が何らかの思考をし、意志をもって行為をしているような印象を受けますが、実際に意志をもって行為を行うのは個人だからです。これが「社会は〜を欲する」という言い方ならば、社会というのが社会論的個人主義や総体主義で述べているように、木々が集まって森となるのと同じく、個人が集まって社会となるという考え方をすれば、納得がいくのですが…。資本の概念の中に、意志をもって行為をする個人、という概念が明確に示されていないためにそういうふうに考えてしまうのかもしれません。

  ミーゼスのプラクシオロジーでは、「人間は行為をする」と言うことがアプリオリに真である、と言われており、私もそれを前提にして個々まで述べてきましたが、「アプリオリに真である」とか「真でない」ということはどのように判断したらよいのでしょうか。そしてそれを証明することはどのようにしたら可能なのでしょうか。「アプリオリに…」ということは真理を意味しており、証明する手段はないのでしょうか。